現代書道の黎明期に流星の如く華々しい活動の軌跡を遺した、大澤雅休(1890-1953)と大澤竹胎(1902-1955)の兄弟。彼らの仕事は、伝統に固執する当時の書道界を震撼させると同時に、書の世界に新風を吹き込んだ。書の造形性を追求しながらも、その根底には古典の臨模や詩歌研究など、たゆまぬ学究の精神が貫かれていた。
(1999年 成田山書道美術館「大澤雅休・竹胎兄弟とその門流展」のチラシより抜粋)
このWEBギャラリーでは、大澤雅休と竹胎兄弟が発表した数々の書作品や随筆と、棟方志功、伊福部隆彦、飯島春敬、宗左近、三宅正太郎、名児耶明、髙橋利郎ら諸氏による評論を紹介する。
大 澤 雅 休
〇大澤雅休 (おおさわ がきゅう) (本名:雅休 まさやす) 1890年-1953年
明治23年、群馬県群馬郡大類村字柴崎出身(現・群馬県高崎市柴崎町)、大正5年に小学校の代用教員となり、定年まで初等教育に従事した。43歳になって、漢字の書家として知られる比田井天来に師事し、書道を始めた。農民文学や綴り方教育に熱心だった雅休は、「書くこと」の本質が、最終的には文字の一点一画を形成する身体運動にあるものと思い至ったのである。昭和13年には書道結社「平原社」を竹胎と共に設立し、昭和23年から月刊誌「書原」を発行した。昭和28年9月、門人に手本を執筆中に狭心症で倒れ、他界した。享年63。
大 澤 竹 胎
〇大澤竹胎 (おおさわ ちくたい) (本名:勇 いさむ) 1902年-1955年
明治35年生まれ、雅休とは12歳離れた兄弟。大正10年、19歳の時に石川啄木に憧れ北海道に渡り、留辺蘂で代用教員。このころはマンドリンを弾き、歌をうたって、自由気ままな生活を謳歌した。昭和2年に雅休の後を追って東京へ移住、昭和4年から高塚竹堂に師事して仮名の書家となった。戦前は竹堂門下の幹部として、目黒周辺に多くの仮名書道教室を開いた。当時から竹胎の作品は変体仮名を用いず、造形的には連綿を見せないもので、「竹胎仮名」と呼ばれている。昭和30年、心臓麻痺にて急死。享年53。
大 澤 雅 休
〇大澤雅休 (おおさわ がきゅう) (本名:雅休 まさやす) 1890年-1953年
明治23年、群馬県群馬郡大類村字柴崎出身(現・群馬県高崎市柴崎町)、大正5年に小学校の代用教員となり、定年まで初等教育に従事した。43歳になって、漢字の書家として知られる比田井天来に師事し、書道を始めた。農民文学や綴り方教育に熱心だった雅休は、「書くこと」の本質が、最終的には文字の一点一画を形成する身体運動にあるものと思い至ったのである。昭和13年には書道結社「平原社」を竹胎と共に設立し、昭和23年から月刊誌「書原」を発行した。昭和28年9月、門人に手本を執筆中に狭心症で倒れ、他界した。享年63。
大 澤 竹胎
〇大澤竹胎 (おおさわ ちくたい) (本名:勇 いさむ) 1902年-1955年
明治35年生まれ、雅休とは12歳離れた兄弟。大正10年、19歳の時に石川啄木に憧れ北海道に渡り、留辺蘂(ルベシベ)で代用教員。このころはマンドリンを弾き、歌をうたって、自由気ままな生活を謳歌した。昭和2年に雅休の後を追って東京へ移住、昭和4年から高塚竹堂に師事して仮名の書家となった。戦前は竹堂門下の幹部として、目黒周辺に多くの仮名書道教室を開いた。当時から竹胎の作品は変体仮名を用いず、造形的には連綿を見せないもので、「竹胎仮名」と呼ばれている。昭和30年、心臓麻痺にて急死。享年53。