墨でなければ感じられない美しさ、墨色、それは魅力である。墨一色の美、白と黒きりの美、それでゐて、少しも美しくないにぶいものがある。きたないものがある、濁つたものがある。濃淡と潤渇、それだけで墨気は表現されるのである。

 「墨と筆と紙」書でなければ他のいかなるものにもない美、その研究が書家の色彩感覚である。それは、単純であればあるだけに、十六色三十二色等の色を使用するすぐれた画家以上の、感覚をもたねばならぬ。墨気、墨の色彩感、濃墨でも、淡墨でも、渇筆(カスリ)でもその感覚で表現しなければならぬ。この点は、速力と圧力と、紙面に分配する、墨の度会ひによつてである。私のかくものにはこの点が相当考慮されて居り、又効果的なのである。濃淡いづれの場合でもである。

 「洞中仙草」でも、
 「無累」でも、
 「さゝのは」でも、
 「脱糞観音」でも、その心ぐみでかゝれたのである。然し尚々そのことはつゞけられて行かねばならぬのである。墨気に心をくばりつねにそのことに注意をむけなければならぬ。勿論、骨力、気力、意志力に色づけられるものでなければならぬ。

「定本 大澤雅休・大澤竹胎の書」 教育書籍(昭和56年発行)大澤雅休ノート(―)より
注* 表記は原文のままとした