雅休は鳥さしの名人であった 目白 四十雀 五十雀 山がら 小雀等々およそ野鳥の類は何んでもその得意のもち竿でさし捕つて飼つていた 鳥さしばかりでなく はがかけ ぶつちめおとり 霞網なども名人であつた ひばりの巣を見つけることも上手であつた まだ赤はだかの雲雀の子をふところに抱いてそだてることもやつた この様に雅休の青年期には野鳥を捉らえてそれを飼うことが好きであつた 毎朝何十もの鳥籠を縁につりさげて各々にえさを與えて はぐくみ育てたものである 

 小鳥ばかりでなく雅休はモルモツトを飼い 兎を飼い 鶏を飼い 犬を飼い 猫を飼い そして彼等を愛した 又雅休は野草を愛した 妙義山の岩松を移植し 赤城山の蝿取歯朶をほつてきて庭に植え 近所の山から破れ傘や石南花 その他私には判らない名前の植物を何百種となく植えて彼等も愛した 

 繪も上手かつたし歌や俳句や文章も作家として各々の部門に認められておつた 器用と言う面から見ても雅休は確に器用であつた 百姓仕事も實に器用なことをやつてのけた 

 書道界では雅休の書を實に不器用なものとして皆が認めていたが 雅休のそうした器用さが書の上だけでは不器用と言はれる程にしか見えないマチエルであつたかどうか 早計に言うことは出來ないと私は思ている 寧ろ雅休はそうした器用さを極端に制御して性來器用すぎる程器用であつたが爲に 勉めて不器用を表現したのかも知れない 彼の書作の上に確かにそうゆう面が窺れる 

 私は雅休と十二も年が違つた所爲もあるが常に可愛がられた 雅休が兵隊に行つていた時私はよく面會に行つたものであつたがその歸りによく五銭玉をもらつたものである 五銭といつても軍隊から貰う給料は一日一銭何がしとのことで五銭だせば手袋を買つて釣銭が來て その釣銭で飴玉を買つて一里何がしの道をしやぶり乍ら歩いて歸れたものである 

 雅休と私とは良く氣が合つた 雅休が歌や俳句や文章を書けば私も一緒にそれをやつた 私が油繪を書けば雅休も油繪をやつた 雅休が書を始めれば私も書を習つた そんなこんなでお互に誰れよりも認め合つた 

 雅休の作品は總べてが未完成である 私にしてみればその未完成が實に嬉しい 昭和の書藝術の上に一つの新しい方向を開拓しようとした雅休 その雅休の未完成作品の一部分を送つて皆さんの愛顧を賜らば 雅休並びに雅休につながる者の喜びとするところである

 大澤雅休の肉體はすでに焼却されたが こゝに 新らしく 永劫に生れ出るのである 貪しく拙なく みすぼらしい乍ら 兄さん ちつとばかりよろこんでくれ 

                                                                              七月十三日 愚弟伏して記す

「大澤雅休作品集」(昭和30年8月発行)後記より抜粋
  注* 表記は原文のままとした