「いのちびのち」と読んでいただきます。
まつぱだかで、丸い体から湯気をあげて、汗をながして、次からつぎと書して行くのです。湧いてゆく様に筆が廻るのです。何人かで摺る墨が、後からあとから無くなって行くのです。赤くなつて青くなつて、鬼のやうになつて書して行くのです。わたくしは今までこんなカザリツケのない書人を知つた事がありません。一途にたてた道は晴れた空の様に澄んではゐるが、その様な厳粛なものでは無く、厳かな案梅のうちに、書といふ姿を、どうともならない姿を、次からつぎと生まして行くばかりです。書くことが、最大の願望であり、いのちであるとでも言ひたい体なんです。
そういふ当然なものに身をゆだねて、大沢雅休先生が書となつて書をして行くのです。あの位ゐ書のいのちを身に持してゐる書人は無二とでも思ひます。書といふ、きわまつたものにどの程度に自分を叩きつづけ、喰はれつづけた人か、どの様にその為に身を砕いた人か、これ程、純真に書への願望に身をハナムケした書人はあまり無いと思ひます。筆をギスギスに音させて身を切つて書を裂き、身を裂いて裂きぬける所以を持つてゐる書人をわたくしは雅休先生に見ました。身もこころもはだかにして書といふバケモノに喰はれて見た書。喰らはれてこその捨身の姿をいつもあたりまいの通りにしてゐる姿。あのニコニコ雅休先生に見るのです。泣いてわめいて、阿鼻をつくして、叫喚をきはめてさうした中から瑠璃光の彩りを、書の命脈を取り出し、妙法具是。雅休先生の真実が書といふ真実を道して行くばかりです。どの人達にも自分を入れず、その喜びと有難さを充分させる。事の位置を事にせず、この人ほど人を真向に生かせる人はない。鬼になつて蛇になつて、よい人を極ませる大きさを、この人は知つて止まない。
自分を知る以上に、人を知る所にこの大書人の在方が生かされ、生きて行くのです。大きな真実は大きな虚に通ずる。さういふ事をまた繰り返していひたくなるのです。人間、大雅休書人は愛染の生命を立てる。やむを得ない書の径道を、風の様に渡る。嵐の様に馳けるのです。闇の様に翳るのです。この大なる立法は業韻を孕んで、無類無尽です。どの書人がここまで真義としての書業を喰ひ入らせ行じて居るか、魂きはまる命の義に於てのみの所業であります。真実を書くといふ本義を、これ程、純真に、純粋に筆した人も不足なのです。そこには子供も大人もない総ての芸命といふ繋がりを如何に書妙への径へと、掛橋して韋駄天して行つてゐるか、かういふ本当さは新らしい真義なものを処して行く道となつて行くのです。道めいた道の在方では毛頭ないのです。書すべきにある唯一法の業執でもあるのです。憑かれるばかりです。体を憑く、灼く、喚ぶに応ずるいとまのない後から後からの真な生命を、書といふばかりに、繰り込ませる道を大沢雅休先生は道して行くのです。この無常なる、来常がどの大きさに、どの偉いさに幅され、深まされて凡ゆる書といふ、いのちを生ましつづけて行くかを、わたくしは断じてこの人にまかせかけるより他に、人も書もないのです。
―瑠璃光書斎にて11月3日―(板画家)
「書原」第29号(昭和25年12月発行)より抜粋
注* 表記は原文のままとした