竹のはらむもの、竹のいのち。これは、いったい何なのか。
 竹胎という余人の思いつかない雅号に魅かれる。
 まず、竹のいのちは土中にひろがるとともに、空中に伸びる。大地を吸って黄いろく、頸く、大気を泳いで、青くしなやかである。しかも、花という名の抒情歌を咲き出させることは、めったにない。
 すなわち、竹胎という雅号は竹胎という芸術家を語ってあますところがない。
 私は深呼吸をする……

 
 残されているこの芸術家の作品のうちの百点ばかりに、改めてむかいあう。
 過去のものという思いがしない。ありありと、優しく強く、生きている。
 ずいぶん暢達である。ひどく流動している。生命の脈うちがある……
 うまいなあ、と感嘆する。
 だが、おそらく当人も、うまいなあ、と感嘆したのではないだろうか。どうも、そう思えてならない。
 うまさとは、おおむね、伝承の技術の支配に従順であるところから生れる。
 書と絵と音楽は幼児の頃からすでに巧拙が分れる。たとえば、わたしなどすでに小学一年生のときに、書と絵と音楽のどれもが、からきし(たい)をなさないことを知った。しかし、わたしと正反対の幼児が幾人もいる。そのうちのもっとも輝かしい成長をとげた人物の一人が、たぶん竹胎である。
 芸術のすべてが天賦のものだとは、思わない。だが、そのなかばは、長い伝承の技術の、おのずからなる遺伝である。必らずしもこの遺伝は親から子への生理だけのものとは限らない。自然と文化の環境の伝えるもの、すなわち素養を遺伝と見なしておくことにする……
 しかし、大切なのはこれからあとである。
 遺伝がなければ、技術は育たない。だが、遺伝があっただけでは、技術は技術にとどまる。
 すなわち、うまいだけでは書ではない。
 そのことを、誰よりもきびしく切なく認識した人物が、竹胎である。
 そのときから、この書家は芸術家になろうとする……(後略)                        (詩人)

「定本 大澤雅休・大澤竹胎の書」 教育書籍株式会社( 昭和56年発行)より
注* 表記は原文のままとした