書が、日展に加えられたことを書道界では喜んでゐるやうであるが、そこに美術界の四十年ものずれからくる、永い惰眠が暴露するに至つた。

 書家の書は固陋で、封建的で因襲的でまた最も味噌臭く、非芸術的だつた。従つて良寛に嫌はれ知識人には敬遠されてきた。書家が真に書を芸術するならば、ただ単なる古筆古法帖のイミテーシヨン製作では満足してをれない筈である。書は時代と共に生きる。しかも常に大衆の日常生活と併立する。従つて時代人の感覚乃至は生活に直結する進歩性を持たなければならない。

 況んやその素材においても現代語を無視し現代文学と結びつこうともしてゐない。むづかしい漢詩文や古歌の類を、殊更読めないやうな草体や上代様でかきつらねて孤高を誇つて見たところで何になるか。第一、書の展覧会などへ足を運ぶものは、その関係者以外にはほとんどないといつた現状である。

 書は点より行動し、動勢に支へられる線の芸術である。構成といふもムーヴマンより必然或いは偶然するデイフオルマシオンの美を理念する。又書は文学と不可分の関係にある。だが書は文学に従属するものではない。他の諸芸術、殊に絵画の下位にも置かるべきものではない。書線と構成により精神性の高さを表現し得る点で書に抜きんずるものは他に見当らぬ。それなのに書家はその事を観念的に誇つてゐるのみで、創意も工夫もなく十年一日、昔ながらの技術をふりかざして自ら省るところがない。

 かくて書芸術は危機に直面する。書の日展入りを契機とし、今にして何等かの群の力を結集して一大ルネツサンスを断行せざれば書は亡びる。書のルネツサンスは今を措いては他にないと私は思ふ。  

(昭和23年8月31日読売新聞所載)

「書原」第6号(昭和23年11発行)より
 注* 表記は原文のままとした