シユールの詩人アラゴンの鎧戸は創元社本で金子光晴氏訳アラゴン詩集にある一篇だがこれは私の書表現のためにアラゴンが金子光晴氏をわづらはして訳させたような感がして一見ただちにそれと取くんだわけである。
勿論この詩は「永遠の運動」という彼の詩集中のものだが、この詩は開かれたるものがなく閉ざされたる世界のものである。だがそれは永遠にそうであるべきではないだろう。鎧はれた人生、重く閉ざされたわれわれではあるが、軈てはこの現実から明るくて自由な世界が展開することだろうと思う。私はそうした認識とそういう希求とをあの三部作は語るつもりだった。その詩精神と作者の意図等がてんでわかっていない批評もあった。
十月号の「墨美」をみるとそこでは画家の長谷川三郎氏と比田井南谷氏がこれに触れて理解ある批評を加えられている。長谷川氏の批評の中には現代書人の世界觀や芸術觀。ことに書芸術が現代に生きる日本人、世界人が理解し鑑賞し得る方向えの示唆が文の中枢的の力であると思うがその事についてはこゝにはふれぬ。諸君は原文についてみて欲しい。尚幾人か印象的作品として鎧戸をあげてあるところをみると私の表現力の貧しさにも不拘相当観應力(根源力)は備わつていたとみてよいと思う。
「書原」第38号(昭和26年11月号)より抜粋
注* 表記は原文のままとした