雅休

1890(明治23年) 0歳

12月17日、群馬県群馬郡大類村柴崎にて大澤家の長男として誕生

 

 

1905 (明治38年) 15歳

高崎市宮元町高陽義塾入門・6月退塾

1906 (明治39年) 16歳

高山社別科入学

1908 (明治41年) 18歳

群馬県群馬郡金島村小学校に代用教員として奉職

1909 (明治42年) 19歳

群馬県群馬郡倉賀野小学校へ転任

1910 (明治43年) 20歳

群馬県群馬郡倉賀野小学校を退職
群馬県群馬郡柴崎村青年実業団労働組合を結成
文章、詩歌の創作開始

1911 (明治44年) 21歳

高崎歩兵15連隊に入隊

1913 (大正2年) 23歳

除隊して群馬県群馬郡大類小学校に奉職

1916 (大正5年) 26歳

開墾のため栃木県金田村安藤開墾村に移住
帰郷して群馬県群馬郡滝川小学校に奉職
検定試験受験、小学校教員免許を取得
堀米イヨ(同校訓導)と結婚

1918 (大正7年) 28歳

アララギ会員となり島木赤彦の指導を受く

 

 

1920 (大正9年) 30歳

北海道紋別郡南湧別小学校に赴任
「覇王樹」同人として数多くの短歌を発表

 

  

1922 (大正11年) 32歳

 帰郷し群馬県勢多郡南橘村細井小学校に奉職

1923 (大正12年) 33歳

2月短歌誌「野菊」を創刊、主宰
 

1924 (大正13年) 34歳

前橋市桃井小学校に転任・綴方教育の振興に尽くす
児童文学雑誌「桃の花」を創刊・幸田露伴の指導を受く

1926 (大正15年) 36歳

東京に移転・淀橋区落合第一小学校に奉職

1927 (昭和2年) 37歳

雑誌「農民」の編集委員、創作「十日夜」「泥鱒」を発表

1929 (昭和4年) 39歳

丹羽海鶴に書を学び、古法帖により学書に努む

1931 (昭和6年) 41歳

第一回泰東書道院展に入選
「口頭綴方の実際」出版

1932 (昭和7年) 42歳

3月渋谷区幡代小学校に転任
「体験を語る綴方の諸問題」を出版

1933 (昭和8年) 43歳

比田井天来に書を学ぶ
「児童の詩文教育」出版

1934 (昭和9年) 44歳

書学院第三回講習会・書学院助教授に抜擢
書道芸術社に同人として加盟

 

 
 

1937 (昭和12年) 47歳

比田井天来創設「大日本書道院第一回展」にて最高賞特別金賞を受賞
書学院教授に抜擢

1938 (昭和13年) 48歳

平原社を結成、主宰
大日本書道院参事審査員

1939 (昭和14年) 49歳

比田井天来死去
洗硯社発行「洗硯」に「日本書道出発体勢考」を発表

1941 (昭和16年) 51歳

大日本書道院総務審査員

 

 

 

 
 

1944 (昭和19年) 54歳

学童疎開のため修善寺・土肥へ疎開

1945 (昭和20年) 55歳

土肥より富山(富山県東砺波郡太田村久泉光円寺)に学童を引率し疎開

1946 (昭和21年) 56歳

日本書道美術院を結成・同院審査員

1947 (昭和22年) 57歳

日本書道美術院を脱退・書道芸術院を結成

1948 (昭和23年) 58歳

第一回書道芸術院展審査員となり「暮雲」出品
平原社機関誌「書原」第一号発行

1949 (昭和24年) 59歳

第二回書道芸術院展に「洞中仙草」「霊山仙草」「素裸の仏陀」出品
日本民藝館で棟方志功と会う
富山県福光町の棟方志功邸「雑華堂」訪問・合作を多数制作
文部省検定教科書・習字科調査委員
第五回日展委嘱作「華下草上」を出品

1950 (昭和25年) 60歳

第三回書道芸術院展に「無累」「草華」「観音脱屎」「万葉集-ささのは-」出品
文部省小学校国語科指導要領編纂委員
第六回日展委嘱作「一期一会」を出品

1951 (昭和26年) 61歳

第四回書道芸術院展に「深山大澤」「虚空無辺」「ぎゃわろ」を出品
第三回毎日書道展に「翰墨因縁」「万葉相聞」「鎧戸-アラゴンの詩-」を出品
第七回日展委嘱作「萬葉二首」を出品

1952 (昭和27年) 62歳

第五回書道芸術院展に「拝山」「萬葉二首」「山嶽重畳(額装)」「時空」を出品
書道芸術院ニューヨーク書道展に「洞中仙草」を出品
書道芸術院関西展に「炎焔不滅」を出品
渋谷区幡代小学校退職 港区青山中学校講師
第八回日展委嘱作「山嶽重畳(二曲屏風)」を出品

1953 (昭和28年) 63歳

第六回書道芸術院展に「淵黙雷轟」「不識底字」「淵深魚蒼」「朝賽暮塩」「棗栗山果」を出品
杉並区下高井戸移転。各室の壁、ふすま、扉に棟方志功の直筆倭画
第五回毎日書道展に「九鼎大呂」(陶皿)「大法無法」を出品
9月門人に手本執筆中、狭心症にて倒れ、死去
没後、第九回日展委嘱作「黒岳黒谿」を出品
本作品は日展の書風に合わないという理由で陳列を拒否される
朝日、毎日、産経、時事の新聞紙上、作品写真、顔写真入りで大きく報道

竹胎

 

 

1902 (明治35年) 0歳

6月17日、群馬県群馬郡大類村柴崎にて大澤家の三男として誕生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

1913 (大正2年) 11歳

大類尋常高等小学校入学

 

 
 
 
  

1918 (大正7年) 16歳

高崎師範学校入学

1919 (大正8年) 17歳

高崎師範学校中退

 

 
 

1921 (大正10年) 19歳

北海道・留辺蘂で代用教員

1922 (大正11年) 20歳

帰郷し兵役検査丙種で不合格、絵の検定に合格

1923 (大正12年) 21歳

伊藤ちよと結婚
再度北海道に渡り、温根湯小学校代用教員

1924 (大正13年) 22歳

稔人誕生
 

1926 (大正15年) 24歳

北海道より帰郷

1927 (昭和2年) 25歳

上京、荏原区大原小学校の専科訓導となり、絵画を教育

1929 (昭和4年) 27歳

高塚竹堂に入門・書活動を開始

1931 (昭和6年) 29歳

高塚竹堂より「竹胎」の雅号をもらう
 

1932 (昭和7年) 30歳

高塚竹堂主宰「ささ舟会」幹部
 

 

 
 

1934 (昭和9年) 32歳

比田井天来・小琴に書を学ぶ
 

1936 (昭和11年) 34歳

荏原区(現品川区)大原小学校退職
大岡山、自由が丘に書道教室を開校 

1937 (昭和12年) 35歳

陽子誕生
大日本書道院第一回展「かな特撰銀」入賞 

1938 (昭和13年) 36歳

兄雅休と書道結社「平原社」創立
 

 

 
 

 

  

1942 (昭和17年) 40歳

ちよと離婚 

1943 (昭和18年) 41歳

「愛国百人一首」を500部限定出版
平まさじと結婚

 

 

 


  

1946 (昭和21年) 44歳

雅美誕生

1947 (昭和22年) 45歳

書道芸術院に創立発起人として参加

1948 (昭和23年) 46歳

第一回書道芸術院展かな審査員
平原社機関誌「書原」刊行に協力

1949 (昭和24年) 47歳

第二回書道芸術院展に「いはみのうみ」を出品
棟方志功と会う。板画制作を開始
富山県福光町の棟方志功邸「雑華堂」訪問・合作を多数制作
 
 

1950 (昭和25年) 48歳

第三回書道芸術院展に「いめのあひは」「檜葉のきに」を出品
 
 
 

1951 (昭和26年) 49歳

東京教育大学附属駒場中学非常勤講師
第四回書道芸術院展に「ヌマタノ」を出品
第三回毎日書道展に「まねかれて」「啄木の歌」を出品 
 

1952 (昭和27年) 50歳

第五回書道芸術院展に「ふるさとの」を出品
書道芸術院ニューヨーク書道展に「あかこひは」を出品
美術文化展に「しんしんと」を出品
棟方志功主宰「日本板画院」会員・第一回日本板画院展に「沖つ玉藻」を出品
 

1953 (昭和28年) 51歳

第六回書道芸術院展に「国音四十八字」「がらんちょ竹馬」を出品
第五回毎日書道展に「木がくれの実より」「子」などの木彫作品5点を出品
第二回日本板画院展に「万葉歌」を出品
兄雅休死去



 
 
 

 

1954 (昭和29年) 52歳

成城学園中等部非常勤講師
第七回書道芸術院展に「沈丁花」「くろつち」を出品
第六回毎日書道展に「富士の歌」「光太郎の詩」「鉄砲百合」を出品
第四回日本板画院展に「女(天に華)」を出品

1955 (昭和30年) 53歳

7月「大澤雅休作品集」を発行
第八回書道芸術院展に「雨ニモマケズ」を出品
第七回毎日書道展に「アラゴン平和の歌」を出品
第五回日本板画院展に「女(かみつけぬ)」を出品・ヴァン・ゴッホ賞受賞
9月、心臓麻痺のため死去